「人妻」という言葉の真実を考察する
セックス好きの男女たちによる人妻をめぐるゲームの規則

人妻という言葉の理想像と現実

「セックスが好き」であり、さらにその性的嗜好が「人妻」であるような一部の男性は、「結婚をしている女性」に対して、分別なく「人妻はセックスレスで性欲が有り余っていてめちゃくちゃセックスが好き」というようなイメージで「人妻」をとらえがちです。

「人妻の魅力」として書かれることになるテキストの多くは、この「セックスが好き」な男性が好む「人妻」の「理想像」を書いたものに過ぎず、実際には「セックスレスで性欲が有り余っていてめちゃくちゃセックスが好き」というようなステレオタイプともいえる「人妻」は、それほどいません。

人妻というカテゴリーから除外されている既婚女性

人妻というカテゴリーから除外されている既婚女性

「人妻」と呼ばれることになる「配偶者がいる女性」は、それぞれに個別的な性格やセックス観を持った女性たちであるので、本来であれば「人妻」というカテゴリーで暴力的に一括りにするのもはばかられます。

というより、そのようにして語ることが不可能である存在であるはずなのですが、そういったことは「セックスが好きで人妻も好き」な男性の考えからは抜け落ちてしまう傾向があります。

たとえば「夫と共働きをしていて家計のやりくりで精一杯であり、保育園の抽選に落ちることに苦しんだりもして、育児だけで手一杯で、正直セックスどころではない」というような「夫がいる女性」は、「セックスが好きで人妻も好き」というような男性にとって「夫がいる女性」でありながら「人妻」としては認識されることがないような女性であると考えることができます。

あるいは、(書いてて恥ずかしくなるような例ですが)「旦那とは結婚後もずっと愛しあっていて毎日ラブラブで何の問題もなく、ベビたん欲しい、っていうかこのまえ産んだばっかりだけど二人目、三人目はどうしようか、名前なんにしようか、ツギハオトコノコガイイヨネーなどといいあって、セックスも毎日バンバンやっていて、セックスレスの気配は一切ナシ!」というような「愛妻家の夫に溺愛され、また、旦那にぞっこんイカれており、SNS上での結婚生活の幸せアピールに余念がない女性」は、おそらく「人妻好きの男性」からすると、「理想の人妻像(旦那とのセックスがうまくいっていなくて欲求不満で身悶えしており背徳に震えながら不倫にはしる)」からはかけ離れた「いけすかない他人の妻」に感じられるのではないでしょうか。

猫も杓子も十把一絡げに人妻として扱うことはできない

さらにいうと、そもそも「結婚」の目的を「セックス」においていないために「セックスレス」などという捏造された問題を抱えることがまったくない「共生」の思考が強い夫婦の妻などは、そもそも「結婚生活」というものと「性欲/性愛」を切り離して暮らしています。

ですから、このような暮らしをしている「他人の伴侶」は「セックスが好きで人妻も好きな男性」からすると、理解の範疇を超えすぎていて、ともすると、恐怖の対象ですらあるかもしれません。

何も、「すべての『夫がいる女性』は、『セックスが好きで人妻が好きな男性』の『理想の人妻』として認識されなければならない」という話をしているのではありません。話はむしろ逆です。

生身の生きた人間である「夫がいる女性」としては、「セックスが好きで人妻が好きな男性」にとっての極端化された「理想像」でしかない都合のいい「人妻」などというカテゴリに、猫も杓子も同じであると言わんばかりに十把一絡げに加えられて、性的対象としての眼差しを向けられるのは、むしろ御免こうむりたい「願い下げ案件」である場合のほうが多いでしょう。

セックスが好きな人間とセックスが好きではない人間

セックスが好きな人間とセックスが好きではない人間

「セックスが好きで人妻も好きな男性」について考えていくためには、まず「セックスが好き」ということについて考えていかなければならないように思われます。

ここで「『セックスが好き』なんていう人として当たり前のことをわざわざ書く必要があるのか」と何の疑いもなく思われる方は、おそらく、相当セックスが好きなのだろうと思います。そして、セックスが好きすぎて、そうではない人間がこの世に存在することに対する想像力が根本的に欠けています。

この世には「セックスが好きな人間」と「セックスが好きではない人間」がいて、おそらくは、比率としては「セックスが好きな人間」のほうが多く、そんな多数派の「セックスが好きな人間」は、少数派の「セックスが好きではない人間」のことをよく理解できない傾向にあります。

もちろん、「セックスが好きではない人間」も、「セックスが好きな人間」のことがよく理解できないのですが、「世の中にはセックスが好きな人間(自分とは違う人種)がいる」ということはわかっているので、「セックスが好きな人間」からの無意識の攻撃を受けないようにそれなりに気を使いながら生きています(たとえば、退屈なセックスの話題などに巻き込まれないために)。

「セックスが好きではない人間」は、本当にセックスが苦手であるかまったく興味がなかったりするだけなのですが、「セックスが好きではない人間がこの世にいるなど信じられない。セックスが好きではない人間なんていてはならない」と考えている「セックスが好きな人間」は、「本当はセックスが好きなのに、セックスが好きだという気持ちを抑圧したり、スカした態度をとっているだけなんじゃないか」というような「セックスの強要」ともとれる決めつけの態度をとりがちです。

誰もがセックスを過大評価しているわけではない

「セックスが好きな人間」は、「セックスを過大評価」し、自分が好きなセックスを、他の人もまた同程度に好きであるだろう、いや、そうでなければならないなどと考え、強烈にそう思い込むことにもなるのですが、実際はそんなことはありません。

とはいえ、「セックスが好きな人間」とはいっても、「セックスがめちゃくちゃ好き!」と公言してはばからないような色情狂じみた人ばかりではなく、「嫌いでもないしセックスができたらそりゃ気持ちいいし得したと思う。ラッキーだよね」という程度には「セックスが好き」な人もいて、その程度の「軽めの好き」が最も多いようにも思われますから、一面化しすぎるのはあまりよくないのかもしれません。

「セックスが好きではない人間」も同様で、「好きでも嫌いでもないし、実際にセックスをしても特に気持ちいいとも思わないし、セックスにまつわることを考えて懊悩する時間や、それに費やすお金は無駄だと思う」といった「好きではない」から、「セックス憎し!セックス許すまじ!セックス絶滅廃絶徹底抗戦!」というような苛烈な「好きではない」まで、その「好きではない」の幅は、グラデーションの細かな豊かな表情を持っているといえるでしょう。

人妻好きの男性はセックスが好きな人妻だけを認識する

さて、ここでそろそろ「人妻」に戻ることにしましょう。「セックスが好き」で「人妻も好きな男性」は、「人妻」という存在を「セックスが好きな人間」の目線からのみ見ますから、「人妻と呼ばれる女性も、自分と同じように、例外なくセックスが好きだろう」と自然に考えます。

ところが、世の中には「セックスが好きな人間」と「セックスが好きではない人間」がいる以上、当然ながら、「人妻」と呼ばれることになる女性も、「セックスが好きな人妻」と「セックスが好きではない人妻」に分かれます。

「セックスが好きで人妻が好きな男性」が好きなのは、「セックスが好きな人妻」だけです。いや、「好き」というよりも、そもそも「人妻」という言葉で「認識」をしているのは「セックスが好きな人妻」だけです。

インターネット上などで読むことが可能な「人妻」にまつわるテキストは、「セックスが好きな男性」の目線による「セックスが好きな人妻(こうあってほしいというイメージがかなり強い)」の集積であるといえます。

「セックスが好きな男性」による「人妻にはぜひともこうあってほしいものだ」という「願望」でしかないものを、「人妻とはこういう存在なのだ!」と「断言」するスタイルで届けられる「セックスが好きな人妻の理想像」についてのテキストは、その「隠しきれない性欲の強さ」と「都合の良い女性像」の連続に目眩が引き起こされるばかりです。

人妻の魅力として語られがちな諸要素の羅列

人妻の魅力として語られがちな諸要素の羅列

「人妻の魅力」として書かれることになる諸要素は、「他人の妻である」ということを除いて、そのほとんどが「独身女性」にも適応可能であるものであるのですが、それは後ほどゆっくり触れるとして、それらの「魅力的な諸要素」として語られることになる文章には、最後に「それでいて、めちゃくちゃセックスが好き」というような一文がつねに隠されているのを見逃すわけにはいきません。

さっそく、「人妻の魅力」として語られることが多いものをピックアップして羅列しながら、そこに、「人妻好きの男性」の隠された性欲(とはいえあからさまな性欲)の一文を挿入し、「人妻好きの男性」の言説の特徴を一望してみることにしましょう。

  • 大人の余裕がある(そしてめちゃくちゃセックスが好きである)
  • 母性がある(それでいてめちゃくちゃセックスが好きである)
  • 包容力(それゆえに、めちゃくちゃセックスが好きである)
  • 大人の色気(もちろん、セックスが好きでないはずがない)
  • 落ち着きのある振る舞い(大好きなセックスにおいてはそうとは限らないが)
  • 男性に理解がある(セックスにおいては言わずもがな)
  • 男性の扱いが上手(セックスはもっとうまい)
  • 経験人数が豊富(なぜなら、セックスが好きすぎるから)
  • 家庭的である(すさまじく性的でもある)
  • 仕事も家事もできる(さらにセックスまでできるなんて)
  • セックスレス(セックスレス)

「人妻好きの男性」によって書かれている「人妻の魅力」にまつわるテキストは、ほとんどがこのようなトーンで統一されています。

細かい違いはあれど、「独身女性」にも当てはまる特徴を「人妻特有」であるかのように語り、これらの魅力によって「セックスが好きな男性」が「人妻(セックスが好きな人妻)」に惹きつけられる、ということを熱弁するのが、「人妻」をめぐる言説に共通する大きな特徴です。

「独身女性」にもあてはまるであろう「人妻の諸特徴」については、「女性にはこうあってほしい」という男性にとって極めて都合がいいイメージを「人妻」に押し付けようとした結果導き出された諸要素に過ぎません。

そして、そんな男性にとって極めて都合がいいイメージをすべて持っている「人妻」は、それらの諸特徴を持ちながらさらに加えて「セックスが好き」でもあるというのですから、これはもう、もしそんな「人妻」がいるならば、「セックスが好きな人妻好き」の男性がハマらないわけはありません。

人妻の魅力として書かれがちな諸要素は人妻の魅力ではない

「独身女性」とも「既婚女性」ともそれなりに交流がある身、そして「セックスが好きではない人間」の立場からすると、これらの諸特徴と、「人妻たるものセックスが好きな女性でなければならない」というような物言いに対しては、すべて「身も蓋もないイメージの押しつけでしかない」と返答することしかできません。

まず「大人」に属する魅力。これらは、「既婚女性」ではない「独身女性」のなかでも、とくに「独身熟女」などにも見出すことができる特徴であって、「人妻」の特権的な魅力ではありません。さらにいうと、「独身熟女」どころではなく、「若い独身女性」であっても、年齢とは関係なく「大人」の魅力を放つ女性というのは無数に存在します。

たとえば、「母性」というようなものは、そもそも「ある」などと言いたくもないようなものではあるのですが、仮に「ある」として、それは「子供がいる女性」だけが持ちうる特性ではありません。自分が産んだわけではない赤ん坊などを不意に眼にした若い独身女性の瞳がきらきらと輝きはじめ、その他人の子供をあやしはじめる瞬間などを見れば、それは明らかです。

これは「人妻」の側から見てもそうです。夫とともにネグレクトをしたり幼児虐待をするような妻=母親に、果たして「母性」と呼べるようなものが備わっているかどうかを少しでも考えてみれば、「人妻には母性がある!」などという断言はとてもできなくなるでしょう。

見れば見るほど人妻特有の魅力というものはなくなっていく

「落ち着きがある」「余裕がある」というのを「人妻だから落ち着きがあるのだ」などというのは、あまりにもめちゃくちゃで、破綻しています。

このような言い方がもしスンナリと通り、「人妻の魅力」を支えているというのであれば、「休み時間に窓際の席で日差しをあびながらゆっくりと読書を楽しんでいるような女子高校生は、どうして『人妻』でもない十代の女性なのに、こうも余裕に満ちて落ち着き払っているのか?ひょっとして『人妻』なのだろうか?」などという、前提が発狂している者にのみ着想可能な疑問を抱くことも許されてしまうのではないでしょうか。

「既婚女性」よりも経験人数が豊富で男性に理解があり男性の扱いが上手な「独身女性」はたくさんいる、などということは、書いていて馬鹿らしく悲しくなってくるほどです。

もしカテゴライズするのであれば、「経験人数が豊富」は「ヤリマン」、「男性に理解がある」は「男にとって都合がいい女」、「男性の扱いが上手」は「小悪魔」あたりがまだ適切であるでしょう(わかってるとは思いますが、これも、便宜上あてはめてみただけの、“暴力的なカテゴライズ”でしかありません)。

「仕事も家事もできる」というのは、一見すると「人妻」っぽいですが、これは「一人暮らしをしている人間であれば男女問わず、人妻でなくても獲得できる要素」でしかありません。

共働きの家庭であった場合、「仕事も家事もできる」なんてものは、むしろ、「妻」だけのものではなく、「夫」にこそ求められるものであるというのが現状であるようにも思います。

セックスレスという「問題」はセックス好きにだけ起こる

セックスレスという「問題」はセックス好きにだけ起こる

「人妻は、夫とのマンネリ化した性行為によって、あるいは、まったく性行為が行われなくなったことによって『セックスレス』に陥っており、それによって欲求不満なのであり、それゆえに、夫以外の男性とのセックスを求める」というような「人妻の魅力」は、一見すると、確かに「人妻特有の魅力」であるかのように思われます。

しかし、このような「セックスレス」という「魅力」も、実のところ「独身女性」にあてはめてしまうことができるのですし、そもそも「セックスレス」という問題を抱えることがないままに結婚生活を送っている「人妻」がいるということも忘れてはなりません。

一つ一つ、まずは、「セックスレス」が「独身女性」にあてはめられる、というものから見ていくことにしましょう。

これは実に簡単です。「人妻」を「彼氏」にすれば、話は終わりです。「彼氏とのセックスに不満をいだいており、セックスレスになっていて、彼氏以外の男性とのセックスを求める」、ただそれだけのことです。

あるいは、彼氏がいない女性でも次のように書くことができます。「もう何年も独り身で、セックスをしていない。よって、セックスレスであり、欲求不満であり、男性を求めている」、じつに明快です。

「セックスレス」は「旦那」がいる「人妻」の特権的な状態ではなく、「既婚女性」にも「彼氏がいる独身女性」にも「彼氏がいない独身女性」にも等しく起こりうる欠乏状態であるといえるでしょう。

セックスレスにまつわる夫婦の組み合わせ

続けて、思い出したいのは「セックスが好きではない人間」の存在です。「セックスが好きではない人間」の身に「セックスレス」は起こりません。はじめから求めていないもので飢える、などということはありえないのです。

パートナーが「セックスが好きな男性」であるにせよ「セックスが好きではない男性」であるにせよ、「妻」となる女性が「セックスが好きな女性」であれば「セックスレス」は起こりますが、「妻」が「セックスが好きではない女性」である場合は「セックスレス」は起こりません。

「セックスが好きな男性」と「セックスが好きな女性」が結婚した場合、二人の間ではセックスが重要な行為として扱われます。「セックスが好きな者同士」でうまくいう場合もありますが、「マンネリ」などでどちらかが「セックスレス」に陥ることもあるでしょう。

「セックスが好きではない男性」と「セックスが好きな女性」が結婚した場合、これはまず間違いなく「セックスが好きな女性」が「セックスレス」に陥ります。性的な欲求不満から、ほぼ100%不倫にはしり、他の男性とセックスをすると考えて良いでしょう。

「セックスが好きではない男性」と「セックスが好きではない女性」が結婚した場合、セックスははじめからあってないようなものなので、「セックスレス」が起こることもありません。

「セックスが好きな男性」と「セックスが好きではない女性」である場合、「妻」が我慢して「セックスが好きな男性」のセックスに付き合うということは考えられますが、「妻」が「セックスレス」になることは考えられません。セックスを拒むような態度をとる「妻」に対する不満から、男性が不倫に走ることはあるでしょう。

セックスレスで不倫をする人妻だけが人妻であるという考え方

「人妻」の魅力として「セックスレスの欲求不満」を挙げるのは「、「セックス好きの男性」だけです。「結婚生活にはセックスがなければならない」という考えなしに、「人妻」という存在をそのような目線で見ることはできません。

前述したように、「セックスが好きな人間」は「セックスが好きではない人間」に対する想像力が根本的に欠如しています。「こんなにも気持ちよく素晴らしいセックスが好きではない人間などはこの世にいないのだ」と考えています。

街をゆくカップル、夫婦などを見て、即座に「こいつらセックスしまくってるんだろうな(金も払わずに)」などと考えてしまうのが「セックス好きの人間」の特徴です。

何も、男女がつがいで交際しているからといって、男女が揃ってやることはセックスだけではないのですし、たとえセックスをしているとしても、四六時中寝ても覚めてもセックスばかりしているカップルというのはそう多くはありません。もちろん、「セックスが好きな男性と女性」のカップルであれば、そういうことはあるでしょう。

「人妻」と見るやいなや「セックスレス」という魅力を見出して欲望が生じてしまうような「セックスと人妻が好きな男性」は、「人妻」というものをすべて「セックスが好きな女性」であると考えているだけです。

「夫ではない男性と不倫をして性行為をするために人妻になったのではないか、と思われるような人妻」だけが「人妻好きの男性」にとっては「人妻」と呼ばれるにふさわしいのです。これは、なんだか「死んだベトコンだけが良いベトコン」みたいな物言いに感じられて仕方ありません。

世に氾濫する「ぼくがかんがえたさいきょうのひとづま」のイメージ

世に氾濫する「ぼくがかんがえたさいきょうのひとづま」のイメージ

これまで例示してきた様々な諸特徴は、そのすべてが「人妻」に特有の特徴ではないにも関わらず、「セックスがしたい」という一念を強化するために、「人妻」の諸特徴として捏造されて提示されつづけてきました。

すべては「セックスが好きな男性」が考える「ぼくがかんがえたさいきょうのひとづま」でしかありません。

その「ぼくがかんがえたさいきょうのひとづま」の特徴は、すべて「最強どころか、どこにでもいそうな独身女性がことごとく持っている特徴」でしかないにも関わらず、「人妻の魅力の決定版!」と言わんばかりに扱われ、これといった疑いを持たれることもなく、今日この日まで無事に生き延びることに成功しました。

いや、間違いだらけの「ぼくがかんがえたさいきょうのひとづま」のイメージは、生き延びたばかりでなく、性的なカテゴリにおいてはすでに覇権を握りつつあります。

その事実は、アダルトビデオなどの動画配信サイトで「人妻」というジャンル名をクリックし、大量に出てくる「人妻モノ」のポルノの一覧でも見れば、一目瞭然のものとして明らかになります。

「人妻モノ」と言われるポルノを再生すれば、「セックスが好きな人妻好き」の「理想像」ともいえる「ぼくがかんがえたさいきょうのひとづま」が様々な痴態を繰り広げている様子を鑑賞することができます。

「人妻」のイメージは、ポルノを通して補強されます。現実の生身で生きている「既婚女性」よりも先に、ポルノ上にわかりやすくあらわれる「ぼくのかんがえたさいきょうのひとづま」という捏造されたイメージをそのままなぞるような「人妻」を知ってしまったならば、その人にとっての「人妻」のイメージはポルノによって「刷り込み」とともに規定されていくことになるでしょう。

人妻というキャラクターを演じてほしいという欲望

一つ一つ検証していけばほぼすべてに対して反駁を加えることが可能な「人妻」の魅力、および「人妻」は、「強烈なステレオタイプなイメージ」として「セックスが好きな男性」の快楽中枢を刺激し、広がりを持つことになりました。

ポルノによって強化されることになった「人妻」のイメージ(ぼくがかんがえたさいきょうのひとづま)は、現実を生きる「人妻」の肉体の上にも自然と当てはめられることになります。

既婚女性たちは、「男性に理解があり、母性と余裕と包容力があり、それでいて男性の扱いが達者でもあり、仕事をこなすばかりでなく家事までやってくれて、落ち着いてもいるのだが、それでいて色気があって経験人数も多く、夫との夜の生活はうまくいってなくてセックスレスで欲求不満でセックスが大好き」というような「理想の人妻像」をあてがわれることに抵抗できず、それを甘んじて受け入れなければなりません。

女性がまだ「独身女性」である場合は、やがて「セックスを目的にした結婚」をしたうえで、このような特徴を持った「妻」になることを男性から期待されます。

「あなたが既婚女性であるのならば、『一人の人格を持った女性』としてではなく、われわれセックスと人妻が好きな男性にとってのぞましい『人妻』というキャラクターをなぞるようなあり方でいてほしい」という男性からの欲望が「人妻」という言葉には凝縮されています。

このキャラクター化への要求は、「性的に消費しやすい存在でいてほしい」という欲望に繋がってもいます。

結婚を一人の女性の所有であると考える男性

結婚を一人の女性の所有であると考える男性

生身の生きている「既婚女性」に、「人妻」というステレオタイプな特徴を持ったキャラクターを押し付け、理想像をなぞることを要求することは、「人妻」という存在を「人」ではないものとして扱うことを可能します。

「人妻」における唯一の魅力(というより、条件)はじつは「他人の妻であること」だけなのですが、「人妻好きの男性」にとって、この「他人の妻である」という事実は、「他人に所有されている“モノ”である」という意味として捉えられます。

「『人妻』と性行為をする快楽はセックスをすること以上に何よりも『他人のものを奪う』という点にこそあるのだ」というような考えは、「人妻好きの男性」の口から出ることになる、「なぜ人妻とセックスがしたいのか」という質問に対する答えとしては、最もありふれたものであるでしょう。

このような答えから透けて見えてくるのは、ある種の男性に特有の、「結婚」が「一人の女性を所有することである」という考えにほかなりません。

「結婚=一人の女性を所有する」という考え方が、「自分と結婚をした女性は、必ず自分とセックスをしなければならない」という考えに繋がっていることは言うまでもないでしょう。

「まずはとにかく家事をやれ。男のやることには基本的に寛容でいろ。母性がなくても母性をむきだしにして生きろ。日常生活のなかで夫が性的に興奮するような服装や発言で夫の性欲をあおり、夜は必ずセックスをさせろ。おまえはおれの妻として所有されるのだから、訓練された妻というキャラクターとして振る舞え」というのが、「所有」の感覚が強く、「所有物に自我があること」を認めない男性による、ほとんど無意識の、「妻」に対する要求です。

所有物が意志を持つことを所有者はなかなか認めない

もし、ここで「私はセックスが好きではない人間なので、セックスはしたくない。あなたと結婚したからといってセックスをしなければいけないというわけではない」などと「妻」が言ってきた場合、「結婚=一人の女性を所有する」と考えている男性は、「自分が所有している“モノ”に反抗された!“所有物”が人として主張している!ヤバい!」というような意外な驚きとともに、セックスの頓挫に暗い怒りを感じながら、不穏な衝動にとらわれることになるでしょう。

「思い通りにならない所有物」に対して、「所有」の感覚を持っている人間が、「所有」の感覚を抱きながら接しつづけるのは非常に難しいものです。

たとえば「お掃除ロボットのルンバ」が「自分の意志」で喋りだして、対等の立場での会話を要求し、みずからの自我と権利を主張し、所有者(とされている人間)の言うとおりにならなかったら、その持ち主は、眼の前の「お掃除ロボットルンバ」を「所有」しているという立場を取り続けることができなくなるでしょう。

もし、今後も同じ家で暮らすのであれば、この「意志を持ったお掃除ロボットルンバ」と「自分」のそれぞれの考えを論議しあい、妥協点を見出し、相手を尊重しつつ自分の意見も相手に伝える、というような支配関係が極力おさえられた共生の可能性を探る必要があるはずです。

しかし、ここで「お前は所有物だ。所有物は、私がのぞむとおりの働きをすればよいのだ」と頭ごなしに宣言して、「意志を持ったお掃除ロボットルンバ」の「人格」を一切認めず、「共生」を拒むならば、その存在をただただ抑圧することになるでしょう。

キャラクター化された人妻を他者の所有物とみなす

「結婚=一人の女性を所有する」という考え方の男性で、「共生」の意志がない場合、「意志を持ったお掃除ロボットルンバ」に対してとるであろうものと同質の抑圧を、女性に対して向けることになります。

この「所有」の感覚は、自分の妻、他人の妻を問いません。「妻」とされるものは、「結婚=一人の女性を所有する」という考え方の男性と出会う限り、「人」としてではなく「所有物」としての振る舞いを要求されます。

その「所有物」の振る舞いとして「妻」に要求されるのが、(都合のいい)「キャラクター化」であり、それは、自分の妻であれば「『よい妻』というステレオタイプであれ」という要求であり、他人の妻であれば「『人妻』というステレオタイプをなぞれ」という要求であるわけです。

「人妻」と呼ばれて性的な対象として見られることになる既婚女性は、「キャラクター化された人妻」になることで、「人」ならぬ「性的に消費しやすいモノ」になり、「モノ」である以上は「他人に所有物」にもなり、「所有物」である以上、「略奪」の対象にもなります。

「セックスが好きな人妻好きの男性」の欲望は、「他者によって所有物にされているという目線で女性を見ること」による快楽と、「所有物として扱いやすい形で女性をキャラクター化する」という快楽と、「他者の所有物を略奪する」という快楽が混じり合ったものに支えられて成立していると言うことができます。

しかし、「人妻」と呼ばれる女性は、キャラクターでもなければモノでもありません。そうでありながら、一人の自我を持った人間である女性である妻は、つねにその生身の存在を無視されながら、キャラクターでありモノとしての「人妻」だけが求められ、「男同士の所有物の奪い合い」という「消費」に付き合わなければならないのです。

人妻が三角関係のゲームに自ら参加する場合について

人妻が三角関係のゲームに自ら参加する場合について

もちろん、この「消費」のゲームに、「誰かの所有物である/所有されていたい/所有物として誰かに奪われたい」というような欲望を抱えて、むしろ、その所有物をめぐる闘いに積極的に身を差し出して参加しようとする「人妻」がいることも確かです。

「よい妻というステレオタイプに忠実でいろ」という夫からの要求、「『人妻』というステレオタイプをなぞれ」という夫以外の男性からの要求に対して、何の疑問も抱くことなく、自分がステレオタイプに自ら率先してはまりにいき、それを「みずからの人格」として受け入れていく、というような女性は数多く存在し、また、そのような女性によってあらゆる場所に夫婦が形成されてもいるからです。

また、「夫からの所有」という感覚に耐えられず、「誰かの所有物」であることから逃れるために、「夫ではない男性」との「自由恋愛」によって解決を見出そうとする「人妻」というのもいるでしょう。

この場合、「人妻」は、自分の生身の存在の欲求に従って「夫ではない男性」を目指すのですから、自分の存在を肯定するために「所有欲の強い夫」から身を引き剥がしているといえます。

ですが、そこで出会うことになる「人妻」が好きな(人妻と知っていて関係性を持ち、手を出すような)「夫ではない男性」というのは、大抵において「他人の所有物」としての「人妻」が好きなだけなので、「夫という所有物」からは身を引き剥がしたとしても、別の他者によって「モノ化/キャラ化」され、「消費」されることになるだけであり、その出口は、逃げ込んだ先が実は逃げ場ではなかった、という状況に繋がっています。

逃げ場を失った人妻が身を滅ぼす破滅へのプロセス

「不幸な不倫関係」の報告などに眼を通すと、大抵、この「逃げ場」だと思い込んでいたものが「逃げ場」ではなかったことによって「人妻」が身を滅ぼす過程を、きわめて似通ったかたちで大量に読むことになります。

そして、このような「不幸な不倫関係」で興味深いのは、「人妻」と「夫ではない男」の間で、「所有欲」の反転が見られる瞬間がときおり見受けられるということです。

「夫ではない男性」は、「他人の所有物」である「人妻」を、「他人の所有物(離婚していない)である」という状態は継続させたままで、「略奪した」という感覚で「所有」を楽しみます。

一方で、「自由恋愛」として、「所有物」であることから逃れようとした「人妻」の一部は、「自分を所有している男性」であるところの「夫」からいっときでも逃れたのであれば、もういっそ完全に逃れきってやる、と言わんばかりに、「夫ではない男」が本気であるならば、自分は「夫」と別れることも視野にいれる」というような意志を伝え、「夫ではない男」の本気度を探りはじめます。

これは、「所有物側」からの「三角関係の解消」の提案です。「他人の所有物を密かに略奪している」ということで満足をしている男性にとって、この「三角関係の解消」は、欲望を成立させている梯子を外されることでしかありません。

不倫関係は見えない均衡に支えられて成立している

「人妻」は自由恋愛の流れで、「夫ではない男性」を所有しようともくろんでいる、と考えることができます。「夫ではない男性」は、「人妻」というものが「完全に自分だけの所有物」になった途端に「人妻」への興味を失うことになるので、当然ながら、尻込みすることになります。

「不倫関係中」にある「間男」と「人妻」の間で発生することになる「関係性をはっきりさせたい」「旦那と別れるから自分と一緒になってくれないか」というような提案から行われることになる話し合いや腹の探り合いなどは、「人妻」という「所有物」を巡るゲームの均衡が破られるきっかけであると言えます。

「夫」「間男」「人妻」それぞれが、この「均衡」を理解し、バランスをとりながら「不倫関係」というものを楽しめる場合、そこには「遊戯」の感覚だけが残されるため、「不倫関係」というものはほとんど永遠に継続できるような趣を持つことになるでしょう。

しかし、多くの場合、「夫」も「間男」も「人妻」も、これらの「均衡」によって自分たちが支えられているとは露知らず、自覚もなしに無思慮に関係性を進行させてしまうため、そこで「不幸」や「終焉」や「修羅場」などが訪れることになります。

セックス好きの男女たちによる不幸を前提にしたゲーム

セックス好きの男女たちによる不幸を前提にしたゲーム

それ(不幸、終焉、修羅場など)は、「他人の妻である状態で密かに所有をしている」という自覚がない「間男」からの間抜けな「夫と別れてくれないか」であったり、「自由恋愛のつもりでいる人妻」からの「奥さんと別れてくれないか」であったり、「妻を所有しているという夫」からの「お前はもう俺の所有物としては認識できないから、別れて、間男と二人で勝手にやってくれ」であったりと、きっかけはそれぞれにありますが、「三角関係の解消」「宙ぶらりんで曖昧な状況への終止符」の欲望によって発生します。

これは、「所有物をめぐるゲーム」の開始とともに仕掛けられた時限爆弾のようなものであり、「所有物をめぐるゲーム」である「人妻をめぐる三角関係」がある限り、逃れることができない危機であります。

このような、破滅が前提のゲームに足を踏み込まないで安全圏にいられるのは、「妻を自分の所有物として扱わない夫」と「妻というステレオタイプを受け入れずに夫婦生活をおくる妻」による夫婦だけであるといえるでしょう。

しかし、「結婚」とは何かを考えないままに「結婚」をし、「所有」の状態が無数に誕生する現状がある限り、「人妻」をめぐる「三角関係の所有ゲーム」は、「間男」というプレイヤーの参加によって、どこにでも発生する可能性を秘めています。

そして、この「人妻」をめぐるゲームは、「セックスが好き」な人間によってのみプレイされているのです。